考えることとの相関

インテリジェンスと考えるということは同義か

インテリジェンスと言えば知的な領域の話にほかなりませんが、それと「考える」という行動は同一と考えていいのでしょうか。

大きく分けるならば、主に3つの可能性が考えられるでしょう。

一つ目はインテリジェンスを用いて考えるということ、二つ目は、考えた結果がインテリジェンスだということ、三つめは考えるというプロセスをインテリジェンスとみなすということ。

情報的な側面を重視するならば、一つ目の位置づけになるでしょう。この場合、インテリジェンスとはツールということになりますから、いかにうまくそれを利用するのか、使いこなすにはどうするかという発想になります。一方、能力的な捉え方をする場合には、二つ目の位置づけが相当します。経験を通じて醸成されたエッセンスを内面的に備える形になりますから、それ自体を使うというよりも、経験値のようなものと言ったらいいでしょう。最後に活動の質の問題を問うならば、三つ目の位置づけになります。インテリジェンスを具象化する上記二つの考え方とは違って、ふるまいの適切さやスマートさと言い換えることもできるでしょう。

一番目は情報、二番目は知識、三番目は感度と簡略的に翻訳することもできます。

自分と環境との関係で位置づけていくならば、一番目は自分の外にあるもの、二番目は自分の中にあるもの、三番目は自分と環境との接点に生じるものと表現することもできます。

使い勝手でいけば、前者ふたつのいずれかとして、確固たるインテリジェンスがあると仮定したほうが、見通しはつけやすいでしょう。しかし、分かりやすさと有効性はイコールとは限りません。導入部としてはいいかもしれませんが、とかく簡略化の犠牲となって見えなくなっている部分は大きいものです。

逆に、インテリジェンス思考とか、インテリジェンス行動という表現にも違和感があります。どうしても同義反復の印象がぬぐえないからです。極論すれば、インテリジェンスなき思考や行動には意味がないわけですから、必然的に思考や行動というものには端からインテリジェンスさが含意されているはずです。

このように、インテリジェンスと考えることはもともと親和性が高いはずですが、インテリジェンスの扱い方次第で、かえって思考停止を招く可能性がなくもありません。とくに、インテリジェンスを導入すれば何とかなるといった借り物発想では、考えることそのものをあわよくば省略して効率化しようという安易な発想が透けて見えるものです。思考を深めることと相関して初めてインテリジェンスと称するだけの意味があるのではないでしょうか。その意味でインテリジェンスは、簡便な思考ツールとは対極にあるといえるでしょう。