気づきはインテリジェンスの卵
気づき=インサイトがなぜ問われるのでしょうか。それは時代への感度だからです。社会の変化はドラスティックなものばかりではありません。日々移ろいゆくちょっとしたことが積み重なって、気づけば大きな違いになるものです。もちろん気づかなければいつも変わらない日常としか映らないでしょうが。
ドラッカーもすでに起こった未来と言っているように、こうした変化に敏なる態度が、インテリジェンスを育てる基本です。気づきとは冷酷なもので、気づかなければ何もない、単なるゼロです。同じことを見ても、そこに気づきを見出せる人と見出せない人では、決定的な違いです。
気づきというと大げさかもしれませんが、もっと平たく言えば、引っかかるかどうかです。要は違和感を感じるかどうか。違和感を感じないとすれば、それは感覚に触れないということでスルーされます。あたり前、当然、普通など、前提という色眼鏡が確立している人ほど、この見えない部分が大きくなります。
このように、インサイトはほんの断片にすぎません。それを一定の文脈に筋道立てて構築したものがインテリジェンスと言っていいでしょう。つまり、インテリジェンスとはインサイトをもとに、ストーリー化されて、意味づけが付与されたものです。より使える形に変換されたものと言ってもいいかもしれません。
インサイトというととかく、マーケティングの中で論じられることが多いかもしれません。しかし、ここでいうインサイトはまさに戦略に結びつくものです。同時に、インプットばかりでなく、アウトプットと連動したインサイトが強調されるべきです。質のいいインサイトはアウトプット経由でもたらされるといってもいいでしょう。インとアウトは相互的なものです。インサイトを得ようというインばかりの視点では、情報に振り回される結果にもなりかねません。ですから、具現、提示を伴う行動型インサイトをここでは強調しておきます。