情報化は量の豊かさを提供してくれるものの、そのスピード感が、私たちに「待てない」事態を引き起こしている。すなわち、答えがすぐに返ってこないという状況に耐えられなくなっている。その結果、物事を短絡的に原因と結果で紐づけようとする無意識の圧力に振り回されることになる。単なる相関が、さもそれらしい因果にすり替えられるのだ。こうした時代背景から逃れられない以上、あまりにストレートな因果関係(らしきもの)は、少々疑って、割り引いて考えるくらいでちょうどよい。そもそもそんなに割のいい因果などというものはないのだから。
答えを早く知りたい、原因を突き止めて納得したい、こうした思考は人間の習いであって、避けて通ることは難しい。だからこそ、すんなり受け入れられるわかりやすい事態には裏があるかもしれないと、一歩引いて見直すことが求められる。
ネットをはじめとして、物事が効率的であるのを最優先にする風潮は、思考の豊かさを奪っていく。むしろ「考える」ということは、効率とは真逆の、非常に手間のかかる、いや手間をかけることにこそ意味を見出す行為であるだろう。
杓子定規な効率化は百害あって一利なし、コミュニケーションとは面倒くさいことにあえて向き合うことでもある。
スピード信仰によって、われわれは我慢ができなくなってしまっている。圧倒的な物量によって強制的に押し流されていることが、あたかも充実したものと錯覚しているともいえるだろう。広く薄く、全体的に雰囲気をつかむだけであればそれで事足りるが、一方で確たる柱を構築していくためには、愚鈍なくらい一事を突き詰めることも必要になってくる。スピードは一つの優位ではあるが、それは万能ではない。