何を変え、何を変えないか
半ば強迫観念のように変わらねばならないと、変わることを訴える論調をよく耳にする。もちろん結果として一定の変化が生じるのは必然であろうが、変わること自体を目的化してしまうと、目先に踊らされることにもなりかねない。いわゆる変わらねばならない論は、結局のところ受け身発想なのだ。世の中の流れに追いつけ、追い越せと鼓舞するのは、変化に負けるなという対処療法を導きがちになる。「変化」というのは状態を表現する事実認定に過ぎないのだから、それをどうこうするというのは、筋を違える危険をはらんでいる。
変化させるか、変化させないかは目的と現実を照らしていく中で都度選択し、また切り替えもありうるものであるから、いくら変化が大事とはいっても、初めから変化ありきとしてしまえば、余地の半分を捨てることにもなりかねない。変化を強調するのであれば、それと同等に、何を変えないかがより一層問われることになるだろう。
先入観という盲目
捨てるべきものを抱え、拾うべきものを見逃していることがまま起こりうる。われわれが正攻法だと思い定めているものはほんとうにそうなのか。むしろそう思いたいがゆえに決め打ちしているだけではないのか。フラットに現実を見るといっても実際には難しい。理想は曇りのない眼鏡かもしれないが、実際には少なからず曇りある眼鏡とどう付き合っていくかが問われている。先入観がすべて悪いわけではないかもしれないが、安易な簡略化は、選択肢を過度に削ってしまう危険性をはらむ。
誰がそれを良しとしたのか
たとえば、真善美による自己基準を確立できているか。いわゆる想定外に振り回されがちな現代にあっては、ありものの基準に漫然と従っていること自体がリスクとなる。客観か主観かの二元論では客観優位な風潮かもしれないが、その客観が機能しないとすれば、それを補いうる主観の鍛錬が欠かせない。もちろん社会のルールを軽視していいとはいわないが、ルールを待つよりも、自己ルールで先行することが、これからの時代にはアドバンテージとなる。
現状延長は幻想にすぎない
意思決定を先送りする方便として、現状延長という物言いがまかり通っているが、よくよく考えるとこれはちょっとおかしなところがある。もし現状延長なる方途がほんとうに成立するならば、それは相当な高尚技巧を要するはずだ。なぜなら事態は刻々変化する、いや、有無を言わせず変化してしまう。つまり字義通り現状を延長するためには、変化する環境のスピードとちょうど同じスピードで自らも変化してシンクロさせなければならない。一般には状況はこれからも変化しないという前提で、現状延長なる幻想に行き着くのだろうが、まさにその前提こそ疑ってみる必要があるだろう。世の中は否応なく変化してしまうのだ。
だから、処し方としては、あえて変化に抗する変えない選択をするか、変化に巻き込まれる前に先に変化してしまうかの二通りの選択肢を選ぶことになる。それでも現状延長なる夢を抱くとすれば、実際には意思決定そのものを放棄して、流されるまま、単に無為に甘んじるということにすぎない。つまり、意思決定とは、いずれにしても切り替えるということが不可欠だ。どうせ変えなければならないとしたら、中途半端に現状保存を考えるよりも、メリハリをつけて取捨選択をしたほうがよっぽど簡単だ。前提を見直すと、これほど状況の見え方は変わってくる。
引き算と排除は似て非なるもの
昨今の社会の潮流として、不寛容や排除の論理が目立ってきている。ではビジネスにおいてそうした発想はどう交わるのだろうか。一見すると、選択と集中を掲げる戦略において、いらないものは潔く捨て去るべしといった論理が成立するかに見える。しかし、意思決定においてひとつを選択することと、選択肢を消し去ることは同義ではない。結局、排除していく発想では、強権的に従わせることと、視野を狭窄してしまうというバイアスから逃れられない。
オプションBともいわれるように、選択肢には一定の振れ幅を持っておくことが、環境変化へのバッファーとして機能する。もちろん理念や信念を曲げていいわけではないが、過度に特定の枠組みを絶対化すると、かえってそれが足枷となり、周りが見えなくなる。引き算と排除では何が違うのか。それは体化して咀嚼するプロセスの有無にある。自分のものにした後で削り出すことは深化だが、初めから変化を否定してしまえば、先細りで小さくまとまるしかない。思考をおのずと開かせてくれるものか、それとも逆に窮屈に押し込めるものか、この違いが両者の線引きになるだろう。