内製化か外部化か

インテリジェスはどこに宿るのか

インテリジェスを人間の知能と平易に理解するなら、個々人の内に醸成されたものをそれとみなすことになるでしょう。一方で、チームや社会としてのインテリジェンスとみるならば、人と人とを結びつける部分にそれを見出すことになるでしょうから、個人の外に位置付けられるといえます。

ダイナミズムという観点からすれば、個人でできる範囲よりも、複数の人間が集まって構築されるものにより大きな可能性が見出せます。その場合、個人に依存しないという意味で、外部化=機械化といった置き換えが可能になるのかどうかという話が出てきます。いわゆるシンギュラリティもこうした流れの範疇と言っていいでしょう。

つまり、インテリジェンスを外部に切り離せる汎用性の高いものと捉えるならば、機械的に代替できてしまうのではということです。情報をいかにたくさん、そして効率的にということに限って言えば、そういうことも可能かもしれません。意思決定に関しても、より最善な選択肢というものが既定の代表値でスケールできれば、ある程度は自動的に振り分けられるのかもしれません。

意思決定を含め、そこに効率性のような側面があれば、確かにそれは機械化の可能性が高いですが、過程を愉しむとか、体感を重視するとなると、それを代替してもらうことは目的に背反します。代わってもらうことはできない、自分でやるしか選択肢はないのです。むしろ自分で為すことが目的の一部を構成しているということです。

このように、それが個々人の内外いずれにあるかにかかわらず、それが手段であれば、徹底的に機械化の波をかぶることになるでしょうし、それが目的であれば、機械化をコントロールできなければ実現できません。ゆえに、内か外かのポジショニング以前に、目的か手段かによって、両者は明確に線引きされます。

ではインテリジェンスはいずれに位置付けられるのかという話ですが、確かに手段として用いられる性質が強いですので、後者の比率が高いものと見なせます。しかし、ではそのまま機械化できるかというとまた話は微妙です。インテリジェンスには差別化という意味合いも含まれますので、どうしても個人や組織のニュアンスがにじみ出るものです。いわば顔なしではインテリジェンスにはなりにくいものです。

逆説的に捉えるならば、情報は機械化の波に逆らえませんが、それをインテリジェンスに高めたものは機械化に抵抗しうると理解できます。